わたしを許す色
最後に刷毛を握ったのは、いつだっただろう。
夕暮れのアトリエに一人立ち尽くしながら、千尋(ちひろ)は乾いたキャンバスに向き合っていた。黒の地塗りが済んだだけのその表面は、まるで心の奥に沈んだままの記憶のように、触れることをためらわせる静けさを纏っていた。
彼女は49歳。
アーティストとして過ごしてきた年月のなかで、いくつもの色を塗っては剥がし、そしてまた塗ってきた。
でも——この数年、何も描けなくなっていた。
「色を置くのが、怖いのよね」
静かに告げると、向かいに座っていた柊(しゅう)が苦笑した。
「君がそんなこと言うようになるなんて、思わなかった」
「私もよ。昔は、黒いキャンバスが一番好きだった。そこから何が生まれるか、自分でもわからないのが楽しかった。
……でも、今は何を置いても、“違う”って思うの」
柊は昔の恋人だった。若い頃、「表現すること」にすべてを賭けていた時期を共に過ごした人。
いまは別々の道を歩いているが、不思議とこうして時々顔を合わせる。
「ねぇ、柊。あのとき、私が急に姿を消した理由、聞かないの?」
「聞かなくていいと思ってた。——でも、描けなくなったのは、それが理由?」
千尋は小さくうなずいた。
「母が倒れてね。介護がはじまって、それまでの自分がいかに脆かったか思い知らされた。毎日が同じ色だった。淡くて、重くて。いつからか気が付いたら色彩そのものが怖くなってたの」
その夜、アトリエでひとり残った千尋は、キャンバスに向かっていた。
手にはローズピンクの絵の具。そして、太めの刷毛。
——黒の静けさを破ったのは、怒りでも悲しみでもなかった。ただ、ほんのわずかな「優しさ」だった。自分を許すように、色を置いてみたくなったのだ。
そう思いながら、千尋はためらいなく筆を走らせた。ざらついた黒の上に、思い切りよくピンクを重ねる。まるで過去の記憶に、そっと温度を取り戻すように。
太く、不規則で、即興的なストローク。だがそこには、抑えきれない感情の痕跡があった。
諦めたはずのもの、見ないふりをしてきた傷。失った時間。
だが、そのすべてを受け入れたうえでの、再出発だった。
一週間後。
柊がふたたびアトリエを訪れたとき、千尋はキャンバスの前で微笑んでいた。
「——描いたの?」
「ええ。色を置くって、こんなに静かで、やさしいものだったのね」
キャンバスに広がっていたのは、黒の上に大胆に広がるローズピンクの軌跡。けれど、その筆致はかつてのような若さの衝動ではなかった。そこには「今この瞬間を生きている」という深い実感が、滲むように絵の奥に宿っていた。
柊は何も言わず、しばらくそれを眺めていた。
「……いい絵だね。」
千尋は目を伏せたまま、ゆっくりと答えた。
「“わたしを許す色”って、タイトルをつけたの」
年を重ねることは、失うことではなかった。
それは、色を見極める眼差しが深くなること。筆を握る手が確信に変わること。そして、どんな色も受け入れられる心を持つこと。
千尋の新作は、その後ひとつのシリーズへと発展していく。
——静けさのなかにある、確かな熱。そのピンクは、もう誰にも消せない。
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