霧のあと
白野沙耶(しらのさや)は、静かに始まる朝が好きだった。
目覚ましもテレビもない静寂の中で、窓をうっすら曇らせる春霧をぼんやり眺めるのが習慣だ。
「また霧だね」
台所から妹の朱音がマグカップを手に入ってくる。
「うん。でも、今日は薄い」
テーブルの上には、母の古いアルバムが置かれていた。
亡くなって三年。手に取ることもできず、本棚の奥にずっとしまってあった。昨日、引っ越しの荷造りをしていて偶然出てきたのだ。
「…これ、見たの久しぶりだね」
朱音の指が、少し湿ったページに触れる。
「見るのが、怖かったんだ」
沙耶は正直に言った。
母の写真は、いつも笑っている。でもその笑顔の下に、なにか言えなかった思いが潜んでいるようで、それが沙耶にはずっとわからなかった。
アルバムの中の写真は、ところどころ滲んでいた。雨に濡れたのか、淡い茶色の染みが広がって、輪郭がぼやけている。それがまるで、時間のにじみのようだった。
「母さんって、はっきりしない人だったよね」
「うん。言葉も少なかったし」
けれど、言葉にしない愛情というものが、この年になって少しずつ理解できるようになってきた。
曖昧だからこそ、ずっと残る気配。
明確じゃないから、むしろ消えない記憶。
午後、荷物の整理をしていると、引き出しの奥から小さなノートが出てきた。母の手帳だった。
中はほとんど白紙。でも、その空白に意味がある気がして、ふたりは静かにページをめくっていた。
最後の方に、ぽつんと残された文字があった。
「私という影が、だれかの中でやさしく滲みますように。」
それを読んだ瞬間、部屋の空気が変わった。
言葉よりも空気で語る母の存在が、その一行に確かに息づいていた。
朱音がつぶやく。「この言葉、あのカーテンみたいだね」
「朝の光で、模様が浮かぶあれ?」
「うん。淡いベージュに、茶色のにじみ。霧みたいだった」
沙耶はうなずいた。
「…母さんの記憶って、あのカーテンの柄みたいに、光の加減で見え方が変わるんだね」
数週間後、沙耶は別の町で暮らし始めた。
ふと目にした布地に、心が止まる。淡いベージュに、茶色の水彩のようなにじみ。
それは、母のアルバムの色であり、あのカーテンの柄であり、そして自分の心にいまも残る“記憶の温度”だった。
「…ようやく触れられた」
静かに息を吐いて、その布に手を添える。
手放せなかったのは、悲しみではない。
そこに、曖昧なまま残ったやさしさが、確かにあったからだ。
霧は、消えてなくなるものじゃない。
見えなくなっても、空気の中に滲みこみ、心の奥に静かに残っていく。
曖昧で、名前のつかない感情ほど、人の記憶に深く根を張るのかもしれない。
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描く、という対話から始まる物語
RYOURANの模様は、すべて手描きで生まれます。
紙の上に筆を走らせる時間は、自然や記憶、心の中の風景と静かに向き合う時間。
こうして生まれた色と柄は、誰かの毎日にそっと寄り添い、心をあたためる存在になっていきます。
手で描くこと。それは人と布をつなぐ、静かな対話です。
模様に宿る文化を、暮らしの中へ
色や柄には、その土地の空気や人々の暮らしが織り込まれています。
RYOURANはテキスタイルを通して、顔の見える物語を届けたいと考えています。
ただの“商品”ではなく、誰かの感性や文化とつながる一着。
それを知ったとき、着ること、持つことへの意識が少しずつ変わり始めます。
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衣類を丁寧に扱うことは、地球へのやさしさでもあります。
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それは、水やエネルギーの消費を抑え、自然環境を守る小さな選択です。
服と向き合う時間が増えるほどに、暮らしもまた美しく整っていきます。