ゆびきりの坂道
午後の坂道は、いつも湿っていた。
晴れた日でも、そこだけは霧がかかったように空気が重く、足元が静かに沈んでいくような感覚があった。
その坂の下に、沙耶(さや)がいた。
「また抜け出してきたの?」
真奈(まな)が声をかけると、沙耶は小さく笑って缶コーヒーのふたを指先で弾いた。
「抜け出したわけじゃない。ただ……会議、長すぎるんだもん」
彼女が座る古びたバス停のベンチには、ほのかににじんだピンクの傘が立てかけられていた。ところどころ色がかすれ、雨に染みた跡が夕暮れの染みのように広がっている。それが、どこか彼女の言葉に似ていた。
「その傘、まだ使ってるんだね」
「うん。壊れてるの、気づく人あんまりいないけどね」
沙耶は、それ以上何も言わなかった。けれど真奈には伝わった。彼女がなぜこの時間、この坂道に毎日のように来ているのか。
彼女の話し方はいつも曖昧だった。
職場でも、同僚にも、家族にも、当たり障りのない笑顔でうまくやっているように見えて、どこか話が深くなると霧のように言葉が逃げていく。
「夜、帰るの遅くなってさ。食べない日もある」
何気なくそう漏らした日、沙耶は傘の柄を握ったまま、それ以上目を合わせなかった。
ある雨の日、真奈は資料を鞄にねじ込むと会社を飛び出した。オフィスを抜け、タクシーにも乗らず、足早にあの坂を目指す。
霧のような細かい雨。街は湿って、誰の声もしなかった。
バス停の屋根の下に、沙耶はいた。
「うちに来なよ。今日は誰もいないから」
そう言ったときの自分の声の震えを、真奈は今でも思い出す。
沙耶がどう答えたのかはよく覚えていない。ただ、あのときの彼女の沈黙が、妙に優しかったことだけが残っている。
そしてそれから──沙耶は会社を辞めた。
数週間後、駅前のカフェで偶然見かけた彼女は、別の制服を着ていた。短く整えられた髪。隣には新しい職場の同僚らしき女性。
すれ違いざま、一瞬だけ目が合った。
沙耶の唇が動いた。
「……じゃあね」
声は聞こえなかった。でも、あのときの言葉だけは、確かに心に届いていた。
春の午後。
真奈はあの坂道を、久しぶりに歩いていた。
ベンチは新しくなり、例の傘も、雨の染みも、もうどこにも残っていなかった。
けれど、あの湿った空気と、曖昧な午後の色と、沙耶がときおり見せた揺れるような微笑みは、今も胸の奥ににじんで残っていた。
あの傘のピンクは、たしかに存在した。
そして、あの坂道で確かに何かが交わされていた。
たとえ言葉にならなくても。
それはきっと、人生のどこかで効いてくる、小さな“ゆびきり”のようなものだったのだ。
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描く、という対話から始まる物語
RYOURANの模様は、すべて手描きで生まれます。
紙の上に筆を走らせる時間は、自然や記憶、心の中の風景と静かに向き合う時間。
こうして生まれた色と柄は、誰かの毎日にそっと寄り添い、心をあたためる存在になっていきます。
手で描くこと。それは人と布をつなぐ、静かな対話です。
模様に宿る文化を、暮らしの中へ
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RYOURANはテキスタイルを通して、顔の見える物語を届けたいと考えています。
ただの“商品”ではなく、誰かの感性や文化とつながる一着。
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衣類を丁寧に扱うことは、地球へのやさしさでもあります。
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それは、水やエネルギーの消費を抑え、自然環境を守る小さな選択です。
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