夜の森、夢のあと
真夜中の森は、昼間とはまるで違う顔をしていた。
濃紺の空を透かして、霧がふんわりと地面を撫でている。枯葉を踏みしめる音さえ吸い込むほど静かなその中で、灯りを持った一人の女性が、ゆっくりと歩いていた。紗良(さら)は都会の喧騒から一人逃げるように、数日だけ借りたこの山小屋へやってきた。
彼女の足元で、黄緑色の苔がかすかに光を返す。小さなランタンの灯りは、霧の中に淡い茶色の影を揺らす。まるでこの森そのものが呼吸をしているように、空気は湿ってやわらかく、どこか懐かしい匂いがした。
「……なんで、来ちゃったんだろう」
誰に聞かせるでもなく呟いた言葉は、木々の間に消えていく。
二週間前、紗良は長年勤めた出版社を辞めた。編集者としての仕事は好きだったが、いつからか言葉が自分の中で「枠」になっていった。何を書いても、誰かの目を気にしてしまう。評価されるかどうか、売れるかどうか。そうして削られた自分の声が、とうとう聞こえなくなった。
「じゃあ、いっそ黙ってみようか」
それが彼女の最後の決断だった。
森の奥、倒木の上に座って紗良はランタンを地面に置いた。月明かりが霧ににじんで、視界がぼんやりと幻想的に揺れる。夜露に濡れた枝先が、黄緑と茶色の光の粒を浮かべ、まるでどこか異国の踊り子たちが舞い始めたようだ。
そのとき、不意に背後から声がした。
「こんなところで、何してるの?」
振り向くと、そこには見知らぬ女性が立っていた。年齢は紗良と同じくらいか少し上か。灰色のマントを羽織り、肩に黒い猫を乗せている。
「ごめんなさい、人がいるなんて思わなくて……」
「いや、私も驚いた。森で人に会うなんて、珍しいから」
女性はにこりと笑い、隣に腰を下ろした。
しばらく沈黙のあと、ぽつりぽつりと話が始まった。名前は志津(しづ)。森の近くで染色工房をしているという。色を作るのが好きで、夜の霧の中で拾った景色を染め物にしているのだと。
「霧の中の色って、生きてるでしょ」
「生きてる?」
「混ざりあってるようで、交わってない。でも、離れてもいない。言葉じゃうまく言えないけど……あの感じが、私は好き」
紗良は黙ってうなずいた。言葉で語れないものを、色で表現する。自分が言葉で苦しくなった分、それがとても自由に思えた。
「あなたも、何かを作る人の顔をしてるね」
志津がぽつりと言った。
「昔はそうだったかも。でも、今は何もできない。色のない水みたい」
「でも、夜の森は真っ暗じゃないよ。いろんな色が、静かに生きてる」
それから朝が来るまで、ふたりは森を歩いた。葉の間をすり抜ける風に身を任せ、草の影に小さく咲く花を見つけ、霧の奥にある淡い明かりを追った。言葉は少なかったが、それで十分だった。
森の風景は、茶と黄緑の粒子となって、紗良の心に染み込んでいく。リズムを失っていた心が、ゆっくりとまた呼吸を始めるように。
朝。山小屋に戻った紗良は、ひと息ついて机に向かった。
ノートを開き、しばらく考えたあと、一本のペンを手に取る。そして、ゆっくりと線を引いた。
その線は、言葉ではなかった。意味も定義もない、ただの色と形のかたまりだった。でもそこには、たしかに“何か”が宿っていた。
それは、夜の森の記憶。霧に包まれた、茶と黄緑のうねり。幻想的で、触れられそうで、でも決して掴めない感覚。
そして紗良は、ふと思う。
「これも、わたしの声かもしれない」
あの夜から数ヶ月。紗良はまだ物語を書かない。でも、描くようになった。筆に任せて、感じたままを紙に落とす日々。言葉にならない気持ちを、色にして。
時折、志津の工房を訪ねる。ふたりで霧の中を歩きながら、新しい模様を思い描く。
「ねぇ、あのとき見た森の色、まだ覚えてる?」
「うん。きっと、忘れられない」
今、紗良の部屋には、ひとつの布が飾られている。
深い青の中に、茶と黄緑がにじみ、リズムを刻むように舞う布。それは、夜の森の記憶であり、言葉を越えた感情のかたち。
そして、それを見るたび、紗良は確かに感じる。
静けさの中にも、声はあると。
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描く、という対話から始まる物語
RYOURANの模様は、すべて手描きで生まれます。
紙の上に筆を走らせる時間は、自然や記憶、心の中の風景と静かに向き合う時間。
こうして生まれた色と柄は、誰かの毎日にそっと寄り添い、心をあたためる存在になっていきます。
手で描くこと。それは人と布をつなぐ、静かな対話です。
模様に宿る文化を、暮らしの中へ
色や柄には、その土地の空気や人々の暮らしが織り込まれています。
RYOURANはテキスタイルを通して、顔の見える物語を届けたいと考えています。
ただの“商品”ではなく、誰かの感性や文化とつながる一着。
それを知ったとき、着ること、持つことへの意識が少しずつ変わり始めます。
やさしく、永く、大切にまとう
衣類を丁寧に扱うことは、地球へのやさしさでもあります。
必要なときだけ洗い、手入れをしながら長く着ること。
それは、水やエネルギーの消費を抑え、自然環境を守る小さな選択です。
服と向き合う時間が増えるほどに、暮らしもまた美しく整っていきます。