静寂の輪郭
早朝四時の東京。ビルの谷間を縫うようにして、ミナは誰もいない横断歩道を渡っていた。
冬の夜明け前は、時間が止まったように静かだ。けれどその沈黙の底には、いつも「始まり」の気配が宿っている。まるで、何かが生まれる寸前の、一瞬の張りつめた墨の間合いのように。
ミナは古いスタジオビルの扉を開ける。照明のない室内に、彼女は無言で入っていく。舞台用の鏡の前に立ち、コートを脱ぐと、白のレオタードが覗いた。
「また来たの?」
奥の影から、低い声が響いた。声の主はユウト、元バレエダンサー。脚を怪我して以来、ここで演出助手をしている。
「うん。体を忘れたくなくて。」
ミナは言いながら、ストレッチを始めた。鏡の中の自分を見つめる瞳は黒く、深く、どこか遠くのものを見ているようだった。
二人は数か月前、舞台の稽古場で出会った。
ユウトはミナに、「踊りがきれいすぎる」と言った。「君の動きは正確すぎて、逆に何も残らない。」
それは一種の賛辞でもあったが、ミナには鋭く刺さった。
その日から、彼女は毎朝このスタジオに来るようになった。静寂の中、ひとりで踊る。完璧な振付ではなく、即興で、思うままに。
ある日ユウトは、彼女に訊ねた。
「怖くないの?輪郭がなくなること。」
ミナはしばらく黙った後、こう言った。
「輪郭が滲む瞬間に、本当の私が見える気がするから。」
ある朝、珍しくユウトが先にスタジオにいた。彼は一枚の白い紙を床に置き、そこに黒いインクを垂らし、刷毛で一気に走らせていた。
「書でも描いてるの?」とミナが笑うと、彼はふと手を止めた。
「動きの“痕”を残せたら、って思って。」
ミナはその紙を見つめた。大胆な筆致、かすれ、にじみ。けれどそこには、明らかに“ある意志”が刻まれていた。
「私の踊りも、こんなふうになれるかな。」
彼は答えなかった。ただ、次の朝には、その紙が鏡の隅に貼られていた。
季節は移り、舞台の本番が近づいていた。
ミナは、ついに主役に選ばれた。だが、演出家は彼女にこう言った。
「動きは完璧。でも、何かが足りない。」
彼女は答えなかった。ただ静かにうなずき、その夜、再びあのスタジオに戻った。
ユウトもいた。
「たぶん、私の中の白と黒が、まだ喧嘩してる。」
ミナはそう言って、踊り出した。動きのひとつひとつが、ぶつかり、揺れ、溶け合っていく。完璧さと衝動、光と影、強さとかすれ。まるで墨が紙に広がっていくように。
ユウトは、何も言わなかった。ただ最後にこう呟いた。
「今の君の踊りなら、紙がなくても痕が残る。」
本番の舞台。幕が上がる瞬間、ミナの心には不思議な静けさがあった。
踊りは、完璧ではなかった。指先が震え、視線が泳ぎ、床に残る足音も濁っていた。それでも、観客の誰もが息をのんで見ていた。
終演後、客席のざわめきの中で、ユウトは一言だけつぶやいた。
「滲んでよかったな。」
それから数日後。
鏡の隅に貼られたあの墨の紙は、もうなかった。
代わりに、新しい白紙が一枚だけ、そこに残されていた。
ミナはそっとそれを見つめた。
そして、何も書かれていないその余白に、自分の輪郭がにじみ始めるのを感じていた。
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描く、という対話から始まる物語
RYOURANの模様は、すべて手描きで生まれます。
紙の上に筆を走らせる時間は、自然や記憶、心の中の風景と静かに向き合う時間。
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